戸籍が無い・・
最近戸籍の無い子供がいる、というニュースを見ました。
離婚後300日以内に生まれた子は前夫の子と為す・・という法律に阻まれ
籍が無いままになっている子供が相当数いるという。
当然母親は再婚後の夫の籍に入れたい、というのは自然の感情だと思うのです。
再婚後の夫の子であるのに前夫の籍に入るというのは理不尽なことと思います。
そして旅券が取れない、国民健康保険などの行政上の権利も受けられないなどの
不便を余儀なくされているといいます。
しかしそのような理由ではなく籍の無い子供がここにいます。
私の弟です。
私たちは旧満州の奉天市で生まれました。
残念ながら弟は一歳の誕生日をすぎてすぐ病気で亡くなってしまいました。
生まれたのは終戦の年です。役所などはもう機能していなかったのではないかと
想像するのです。弟は戸籍に載っていません。勿論父と母の子です。
なぜ載っていないのか不思議だったのに母に詳しく聞いてなかったのは不覚でした。
日本が戦争に負け時に、外地にいてどのような状況だったかは想像できるからです。
母もあまりその話には触れたくないようでした。異常な時期に生まれて
出生届など出す余裕が無かったのではないか、と想像するのですが
詳しくは解りません。
奉天市は満州中心部だったらしいのですが、やはり戦況が厳しくなってきてからは
大変だったらしいです。それまで威張っていた日本人は「そら見たことか、日本は
負けたんだ」と中国人から石をぶつけられたらしいです。
母は普通の日本人とは違って現地の人とも仲良くしていたのでそれほどには
報復を受けなかった、とは言ってましたが日本の土を踏むまでは生きた心地が
しなかったと生前よく言ってました。
日本に帰ってきて私が5歳ぐらいの時に父からある日言われたのです。
「お前には弟がいたんだよ」と。その瞬間弟の存在が閃光のごとく幼い私の脳裏に
浮かび上がってきました。幼児期には2歳下の兄弟のことなんて覚えてないのですね。
普段は。当然ひとりっこだとばかり思っていたのが急に弟の姿がぼんやりと
浮かんできました。「あ~。あれ○○ちゃんだったのか~」という感じです。
その時は勿論子供ですから戸籍のことなんかわかりません。
大人になってから戸籍を見る機会があったときに始めて弟が戸籍に載っていないことが
解ったのです。質問しなかったのは前記したとおりです。
おまけに写真も一枚もないのですよ!
父母は当然自分の子供ですから写真が無くても、顔も可愛い仕草も覚えているでしょう。
弟の死は父母にとってどれほどの悲しみであった事か・・・
母は一日として忘れた事は無い、と言ってました。
しかし、私の身にもなってよ~と言ったことがあります。
弟は確かに存在した、でも戸籍には載っていない、写真も無い、・・・??
3歳の子が弟の顔を覚えているのは無理です。
父母が亡くなってしまった今でも、なんだかボヤ~ッとしたイメージしか無いのです。
弟の存在は。しかし不思議なことに5歳の時に弟の存在を知らされた途端
涙が溢れてきたのです。きっと幼くても私の頭のどこかに弟の映像が残っていたのでしょう。
これはどんなパソコンにだって叶わないことだと思いますよ。削除は絶対出来ないのですから。
父母が生涯大事に箪笥にしまってあった「書」があります。
弟が生まれた時の命名書です。
父は筆文字がとても上手でした。しっかりと書かれています。
年月を経てセピア色に変色していますが、これが弟の生きた証なのです。
そうだ!この大事な「書」をブログにupしよう!
パソコンが出来なければこの大事な「書」もこの世には出せないで終わっていたのです。
ホームページやブログが出来た事に感謝です!!
いくら大事にこの「書」を取っておいたって家族にさえ一回も見せる機会は
ありません。普段は箪笥の奥深くしまってあるからです。
この度の「無国籍の子供」の中にも私の弟のような存在があったことを少しでも
ご理解いただければ弟も高い空から苦笑しながら見てくれるでしょう。
ところで弟の出生届が出てないので死亡届けも出てないのです。
戦争の狭間に生まれて狭間に亡くなっていったのです。
合掌
追伸:お彼岸が近いので弟が私の心を突き動かしたのかもしれません。
離婚後300日以内に生まれた子は前夫の子と為す・・という法律に阻まれ
籍が無いままになっている子供が相当数いるという。
当然母親は再婚後の夫の籍に入れたい、というのは自然の感情だと思うのです。
再婚後の夫の子であるのに前夫の籍に入るというのは理不尽なことと思います。
そして旅券が取れない、国民健康保険などの行政上の権利も受けられないなどの
不便を余儀なくされているといいます。
しかしそのような理由ではなく籍の無い子供がここにいます。
私の弟です。
私たちは旧満州の奉天市で生まれました。
残念ながら弟は一歳の誕生日をすぎてすぐ病気で亡くなってしまいました。
生まれたのは終戦の年です。役所などはもう機能していなかったのではないかと
想像するのです。弟は戸籍に載っていません。勿論父と母の子です。
なぜ載っていないのか不思議だったのに母に詳しく聞いてなかったのは不覚でした。
日本が戦争に負け時に、外地にいてどのような状況だったかは想像できるからです。
母もあまりその話には触れたくないようでした。異常な時期に生まれて
出生届など出す余裕が無かったのではないか、と想像するのですが
詳しくは解りません。
奉天市は満州中心部だったらしいのですが、やはり戦況が厳しくなってきてからは
大変だったらしいです。それまで威張っていた日本人は「そら見たことか、日本は
負けたんだ」と中国人から石をぶつけられたらしいです。
母は普通の日本人とは違って現地の人とも仲良くしていたのでそれほどには
報復を受けなかった、とは言ってましたが日本の土を踏むまでは生きた心地が
しなかったと生前よく言ってました。
日本に帰ってきて私が5歳ぐらいの時に父からある日言われたのです。
「お前には弟がいたんだよ」と。その瞬間弟の存在が閃光のごとく幼い私の脳裏に
浮かび上がってきました。幼児期には2歳下の兄弟のことなんて覚えてないのですね。
普段は。当然ひとりっこだとばかり思っていたのが急に弟の姿がぼんやりと
浮かんできました。「あ~。あれ○○ちゃんだったのか~」という感じです。
その時は勿論子供ですから戸籍のことなんかわかりません。
大人になってから戸籍を見る機会があったときに始めて弟が戸籍に載っていないことが
解ったのです。質問しなかったのは前記したとおりです。
おまけに写真も一枚もないのですよ!
父母は当然自分の子供ですから写真が無くても、顔も可愛い仕草も覚えているでしょう。
弟の死は父母にとってどれほどの悲しみであった事か・・・
母は一日として忘れた事は無い、と言ってました。
しかし、私の身にもなってよ~と言ったことがあります。
弟は確かに存在した、でも戸籍には載っていない、写真も無い、・・・??
3歳の子が弟の顔を覚えているのは無理です。
父母が亡くなってしまった今でも、なんだかボヤ~ッとしたイメージしか無いのです。
弟の存在は。しかし不思議なことに5歳の時に弟の存在を知らされた途端
涙が溢れてきたのです。きっと幼くても私の頭のどこかに弟の映像が残っていたのでしょう。
これはどんなパソコンにだって叶わないことだと思いますよ。削除は絶対出来ないのですから。
父母が生涯大事に箪笥にしまってあった「書」があります。
弟が生まれた時の命名書です。
父は筆文字がとても上手でした。しっかりと書かれています。
年月を経てセピア色に変色していますが、これが弟の生きた証なのです。
そうだ!この大事な「書」をブログにupしよう!
パソコンが出来なければこの大事な「書」もこの世には出せないで終わっていたのです。
ホームページやブログが出来た事に感謝です!!
いくら大事にこの「書」を取っておいたって家族にさえ一回も見せる機会は
ありません。普段は箪笥の奥深くしまってあるからです。
この度の「無国籍の子供」の中にも私の弟のような存在があったことを少しでも
ご理解いただければ弟も高い空から苦笑しながら見てくれるでしょう。
ところで弟の出生届が出てないので死亡届けも出てないのです。
戦争の狭間に生まれて狭間に亡くなっていったのです。
合掌
追伸:お彼岸が近いので弟が私の心を突き動かしたのかもしれません。
この記事へのコメント
弟さん、生きていらしたら優しい野薔薇さんのことですからきっと仲良くされていたでしょうね。
時代のせいと言ってしまえばそれまでですが、戦争・・・残酷ですね・・。
戸籍のことはよくわかりませんが弟さんは野薔薇さんの心に生きた証を残してくれたのですね。
変な話かもしれませんが、人は亡くなっても魂というか心のようなものが残ると思うんです、弟さんは亡くなって何十年たっても、野薔薇さんを見守ってくれているに違いないと思います。
それにしても戦中の命名書、よく残してありましたね。
そしてお父様のこの落ち着いたすばらしい筆跡・・・
やはり”書”は遺伝なんですね。
本当に弟は私の心の中では確かにいつも存在していました。
でも今、そばにいてくれたらどんなに心強いか、と思うことも
あります。でも、母は諦めの気持ちだったのでしょうか。
生前こんな事を言っていました。
「赤ちゃんの時に死んでくれたからまだ救われたのではないか・・
これがもっと10歳、15歳と生きてから別れるというのは
辛いだろうねぇ・・」
それだけ思い出も沢山出来るからでしょうか。
この命名書は時々箪笥の中から出てきて見てはいたのですが
ブログに載せようという気になったのは昨日だったのです。
不思議ですね。自分の下手な作品ばかり載せていて・・
なかなか姉さんは気がつかないので、弟がきっと教えてくれたのですね。(-。=)
私もこの書文字はすごいと思います。父は書道を習ってはいないのです。
自分で書の辞書を見ながら練習したのだ、と言っていました。
これ、父が20代半ばの時です。
こんな事言っては失礼ですが、今の若い人で筆文字がこれほど書ける人は
あまりいないのではないでしょうか。私が同じ年のころの字なんて
子供が書いたような字でした。おはずかしい~・(笑)
どちらにしてもこれで弟の存在がやっと証明できました。
弟も空からびっくりして見ているでしょう(^^;)
でも、今回この命名書がこうした形で世に出る事になって、きっと弟さんも喜んでらっしゃいますね^^お父様の愛情が文字からひしひしと感じるようです。
私は生まれる前に子供を二人亡くしてます。姿も形もこの目で見てはいません。
それでも一日だって忘れたことありません。これからも一生そうだと思います。
可愛い盛りに亡くされたご両親の思い、相当の物だったとお察しします。
それでも野薔薇さんがいてくれたからどんなにか救われたのだと思いますよ。
だから5才の野薔薇さんに話す事も出来たのではないかと…
それにしても、戦争というのは何も生まないですよね…どれほどの哀しみと傷だけを残してきたことか…
えぇ、そんなんです。もっと早くupすることに気づくべきでした。
自分の下手な作品ばかりupして。こんな便利なブログというものが
あるのに、姉さんは何を考えているのだろう、と弟から言われたような
気がします。これでやっと世に出られた、という感じですね。
皆様に読んでいただいて弟も喜んでいる事と信じます。
シドさんもお二人も子供さんを亡くされていたのですか?
お姿を見ぬままに・・辛い事ですね。
一日として忘れる事は出来ないですよね。
それでも、弟はまだ幸せだったと思います。
両親の愛情の中で死んでいったのですから。
戦後の混乱のために置いていかれた中国東北地方の方たちは
本当にお気の毒だと思います。これも戦争が全て悪いのです。
とても酔いの回っている状態では拝見出来ないと思いました。
今やっと素面になりましたので、拝見させて頂きました。
私の想っている事は皆様と同じです。
想像を絶する苦痛・苦難・悲しさ・口惜しさ・・・。
戦争は人間の1番大切なものを、いとも簡単に奪ってしまうのですね。
弟さんは、今天国でやっとお父様とお母様に甘える事が出来ているでしょうね。
やっと一緒に楽しく暮らしていらっしゃるでしょうね。
お父様・お母様からの愛情をたっぷり受けて幸せに暮らしているでしょうね。
お父様の書、素晴らしくて感嘆致しました。
いいのですよ。お酒が入っていたって(笑)
ちなみに父は大酒飲みでした。母も、これまたいける口でね・・
その息子だから生きていたら親子4人で毎日酒盛りだったでしょう。(^^)
そうなんです。弟は当然早くから一人でお墓の下でしたけど、
平成6年に父が亡くなった時には本当に安らかな穏やかな顔でした。
今から考えてみると「やっと志郎ちゃんに会えた!」と嬉しそうな
表情でした。11年に母も逝って、やっとあの世で3人で楽しく
やっている事でしょう。私は長い事父母の元にいたのですから
これからはどうぞ、うんと甘えてね、という思いです。
私はもう少しこの世でお酒を飲みますよ~(@。@)
戦争は2度と起こしてはいけませんね。
父の文字のこと・・喜んでいる事と思います。
お彼岸です。華流さんもお父様のお墓参りですね。
合掌
何年も前のこのブログを何とはなく読んでみましあ。皆さんたくさん弟の事書いてくださっていたのを思い出しました。
2か月前の大津波のあと、華流さんのブログに
お見舞いを書こうとしたのだけど書き込みが出来ないようになっていて、どうしたものかと
迷っていました。
近いうちにお葉書を出しますね。
ご両親のお墓も流れてしまったのですよね。
悲しいでしょうが、魂は生きていますね。
頑張って下さい。 合掌